考えごと捨て場

吐き溜め

好きと嫌いの話

パワーバランスのお話

好きと嫌いのふたつの感情、これってどっちのパワーの方がデカいんやろかってことを割と昔から考えてるんですよね。僕の中では何回考えても答えは一緒で、結論から言うと「嫌い」の方が強いと思ってるんですけど。でももちろん「好き」の方がデカいやろという人もいると思うんで、これもいつも通り個人的な考えってことを念頭に置いて寝る前にテキトーに流し見してください。

好きの感情について。
人には必ずと言っていいほど好きなものがあります。人でも食べ物でも、ちょっと好き、かなり好き、めっちゃ好きみたいにレベル分けされたりして「好き」という感情を向けてます。これって感情的にはかなりプラスのパワーやと思ってて、明るい気分になれるパワーなんですよね。なにかをする時もこのパワーを使ってて、例えば僕は小説を書く時、好きな物じゃないとまず書き始める気すら起きないんですよね。生意気ですけど。だからしたことも無い恋愛を題材に書き始めるし、出てくる女の子はみんなクール系で主人公を引っ張る感じの女の子なんですよ。でも、実はそれであんまり書き上げるまでいかなくって、プロットをしっかりしててもどうしても途中で書く気持ちが削がれちゃうんですよね。なのにクソみたいなプライドが邪魔して一貫して恋愛モノ書こうとしてんすよ。アホですね。
閑話休題。つまるところ、好きのパワーは続かないんですよ。いやほんまに。いくらその「好き」がデカくてもパワーは使っていけば減っていって、いずれ無くなってしまう。無くなってしまうと動くことが出来なくなる。パワーを溜め直すには時間がかかる。ままならんね。

嫌いの感情について。
ほとんどは好きで言ったことと同じです。「嫌い」という感情を元にしたパワーでなにかのモチベーションを保つ。使えばパワーは減っていく。溜め直す必要あり。
でも、嫌いには1点違う所があると思ってて、それが何かと言うと「好き」を突き破る力があるんですよ。前の多面性の話の時にも書いたんですけど、例えばめっちゃ好きな人がいたとして、けどその人のことをふとした瞬間に(部分的にでも)嫌いになってしまうことってある。その「嫌い」はいずれなだらかになっていって、また「好き」に包まれて無くなったりするんですけど、少なくとも突き破るだけの力はある訳なんですよ。逆に、「好き」には「嫌い」を突き破る力はない。めっちゃ嫌いな人をふとした瞬間に好きになることあります? 僕はないです。嫌いな人がええことしとったらなんやあいつええ顔しよってからに、きっしょいわぁ、ってなります。嫌いなんで。この違いから嫌いの方が強いって考えが僕の中で生まれてるわけなんですけど。ここで「いや、嫌いな人のことを好きになる瞬間ってあるよ」って言える人が、「好き」のほうがパワーがでかい人なんでしょうね。

僕が仮に「嫌い」をモチベーションになにかを書くのであれば、「家族」 特に「父親」というものをテーマに物語を作ると思いますね。でも、僕の中では家族系の話を書くのを生意気にもタブーにしてて、その理由はまぁ後日話したいなとは思ってるんで物好きな人は期待しててください。あと、それとは別に「父親」という生き物についても考えてることをまとめよかな。それもつまりは「家族」について文章を書くことになるんですけど、ギリセーフかな。

話をかなり戻して、「嫌い」のほうが「好き」よりパワーがデカいとして、それが創作にも関わるのかと聞かれれば、関わると思います。さっき僕は、好きを元にしたパワーだと途中で書けなくなっちゃうって言ったんですけど、嫌いなら多分続く。やったことないけど。でも、根拠というか、理由は一応あって、そもそも好きって感情は続かないんですよ。言ってしまえば「嫌い」に突き破られる程度の感情でしかないわけですし。でも、嫌いは無限に続くんですよ。嫌なことにね。美人は飽きるとか言うやないですか。多分あれと同じで、好きも途中で飽和するんですよ。飽和した時、パワーを生み出せなくなる。でも嫌いは飽和することがない。無尽蔵にパワーを生み出し続けられる。好きな物について書いてても途中で力尽きちゃうけど、嫌いな物を書いてると常に「嫌い」と向き合ってるから、それでパワーが生まれる。永久機関が完成しちまったなアア〜〜〜!! これでノーベル賞は俺んモンだぜ〜〜〜!!

悪態付いたり嫌いなもんについて書いてるのはそういう理由があるからなんですよね。書いててモチベが保てる。その結果イキって指摘されて冷静になってシュンってなるんですけど。
あ、文章内の好きと嫌いにカッコがついてるか否かは別に意味ないです。ここカッコついてないと読みにくいかな?と思ったとこに付けてます。『どうせつけるならこの括弧の方が良かったですかね』 やめとこ。厨二出ちゃうわ。ほな